大河ドラマ「真田丸」ですが、関ヶ原の戦いが終わり、
真田昌幸と信繁は和歌山の九度山で謹慎生活を送る。
その後、「真田丸」のクライマックスである大坂の陣の話になっていきます。
予習を兼ねて大坂の陣の事を勉強したいと思います。
大坂の陣を超簡単に解説
関ヶ原の戦いで勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康ですが、
邪魔だったのが、豊臣家。
豊臣家を滅ぼさないかぎり徳川の安泰はないと考えた家康は
なんとか豊臣家を滅ぼす事を画策します。
家康は豊臣秀頼に京都の方広寺を立て直させたのですが、
その鐘に書かれてい文字の中に「国家安泰」とあったのを
家康を分断する。
「君臣豊楽」とあったのを豊臣家の繁栄を願い徳川家の没落する
呪いが込められているといいががりをつけました。
これが「方広寺鐘銘事件」です。
豊臣側は弁明しましたが、徳川は聞き入れずに大坂城を攻めます。
これが「大坂冬の陣(慶長19年・1614年)」です。
しかしこの戦いでは真田信繁が作った「真田丸」と呼ばれる出城のおかげで
徳川は大坂城を落とすことができずにいました。
そこで徳川は長距離の大砲を大坂城に撃つ作戦に出ます。
これには豊臣家も参ってしまい、ついに和睦となり、「大坂冬の陣」は終わります。
その時の和睦の条件が大坂城の外堀を埋めることと「真田丸」の破壊でした。
この外堀を埋める時に徳川は中堀まで埋めてしまい、大坂城は丸裸の状態になってしまいました。
それから徳川は再び大坂を攻めます。これが「大坂夏の陣(慶長20年・1615年)」です。
この時の大坂城は外堀、内堀、真田丸もなく、戦う力がない状態でした。
難攻不落の大坂城がただの平地に立つ城になってしまったのだから、
攻め込まれたらひとたまりもありません。
この戦いにおいても真田信繁は大活躍をして家康の本陣に突入、家康を自害寸前まで追い込みました。
が、ついに力尽き無名兵士の槍で討ち死にしてしまいました。
大坂城は火の海となり、秀頼と淀君は城内で自害。
これにて戦国の世が終わり、長く戦いのない平和な時代が続くことになります。
さいごに
大坂の陣では真田信繁(幸村)の活躍があったのですね。
徳川家康を自害寸前まで追い詰めるところを早くドラマでみたいです。